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2010年7月30日金曜日

蛍で思う

ネットでコラムを読んでいたら、最近は蛍が復活してる様子が書いてあったので、一時帰国した時にも田舎でも蛍が見られたのを思い出した。

私の田舎では、子供の頃には家の前が川で柳の木が川縁に生えていてシーズンになると夜に蛍がたくさん飛んでいた。
その蛍を捕まえて虫かごに入れたりして家の中に持ち込んでも、殆ど朝には死んでいた。

しかし、その後20年が経った頃には農薬や川の環境が変わり蛍は殆ど見られなくなった。
たまに都会から田舎に帰省した時に寂しい思いをしたものである。

それが、今回、ベトナムから一時帰国した時に、夜に何げなく川の見える所に行くと蛍の光を見つけて嬉しく思った。
注意して川を見ると、多くはないが数匹の蛍が飛ぶのを見る事ができた。
シーズンは過ぎているので、もっとたくさんの蛍がいるのだろうと想像できた。

その後、中学生時代の同級生の話だと、最近では蛍は昔のように多くなってきているとのことだった。
米作りに農薬をあまり使わなくなったことも影響しているのだろう。

ふと、子供時代はその川で夏にはプール代わりに泳いだことを思い出して懐かしかった。

蛍から、昔の良き時代を思い出したが、ベトナムでも蛍は見れると聞いたが本当かな?
一度見てみたいものだ。

Buon Ma Thuot ブンメートッの朝は早い

今朝はダクラックの中心地のブンメートッに来て3日目、朝早く目が覚めた。時間は五時だ。
外はまだ暗いがホテルの窓から見ると、日傘を被り道路を掃除している女性たちがいた。
運動場の様な空き地で、やはり日傘を被り歩いている二人連れの女性がいる。

ベトナムで朝早くから活動しているのは女性たちだ。
市場はその典型だ。私は旅行したら、その地の市場にいって見る。当然に市場では女性たちが主役だ。
市場内を外国人がウロウロするとあちらこちらから鋭い視線が突き刺さるような感じがする。
「何を買う?」と声がかかる。

今日は、昨日と同じ所でまず豆乳を飲む。
同じ店でラオマーという野菜ジュースを持ちかえりで買う。これが体に良いと信じて私はホーチミン市にいる時にも毎日のように飲んでいる。旅行しても、市場に行くと必ずのように売っているのが嬉しい。

その店の隣で大きな鍋で海老などが入って良いダシが出てそうな麺類を売っていたので食べる。
ホーチミン市ではみた事が無い。名前を聞き忘れたので、次に来たときに聞こう。

突然に近くの店から大きな女性の声が聞こえてきた。どうも喧嘩のようだが、一方的に怒鳴り声がするが相手の声は聞こえない。ま、相手にするのはヤバそうな声なので無視しているようだ。その方が賢いと思いながら食べていると、その内に声はしなくなった。

お腹も一杯になったので、帰る途中でサオリンとココナッツを買う。ホテルに
着いて時間はを見るとまだ7時だった。今日は早いな。

2010年7月28日水曜日

ダクラックのTrung Nguyen coffee でマッタリと本場のコーヒーを飲みながら

iPadでブログの投稿をしようとしたら、写真が取り込めません。残念。
と言う訳で写真無しの投稿で、いまひとつ盛り上がらない、悪しからず。DSCN1904.JPG

6月初めに来たときに発見したダクラックのコーヒーのメッカ。
今回、ダクラックを再び訪れたのでまず来ました。

最初の驚きほど新鮮さはありませんが、やはり敷地の広さは半端じゃありません。正面からの写真に全体が映りません。

前回よりは客数が多くて、観光客らしい外人も居ました。

ここは、下手な文よりも写真でと思うのですが…。DSCN1911.JPG

2010年7月26日月曜日

 室蘭に転勤…悪夢だ!/天国から地獄へ

 会社員の私は大阪の支社から北海道の室蘭駐在所へ転勤を命じられていた。
それも年末の寒い次期に…、極寒の北の果てまで。
昔は転勤拒否も出来る時代があったが、労組が御用化した今では転勤拒否は即首のになった。

 一枚の辞令が送られて来ただけで、何の連絡も無いが年明けからはその転勤先で仕事をしなければならない。しかし、今の仕事も誰に引き継ぐのか分からないままに仕事を片付けている…。というおかしな状況設定だ。

 そのバタバタとしている時に、転勤先の上司から(と言っても駐在員2人だけの事務所でその上司だ)電話があった。
上司:「いつ来てくれるんですか。早く来てください。」
私:「そう言われても、こちらの仕事を片付けてからでないと…。」
上司:「とにかく、こちらは人がいないから、明日にでも来てもらわんと…。」
私:「はー」(今更、室蘭に転勤とは…、会社は辞めても良いよと言わんばかりの対応だ。本当に辞めたくなった。行っても、ろくな事は無いのは分かっている。)

その上司は私よりも若い。労働組合の活動をしていた私は、労組が御用化されてから極端に給料も地位も差別をされていた。正に天国から地獄になった状況だった。
マトモな労組の幹部だった人間は、本部委員長は首切り、書記長は海外の駐在所に左遷。その他、労組の幹部は左遷、配転などは当たり前になって行った。自ら、会社に見切りを付けて辞める人間もいた。

組合が御用化するとどうなるかという手本を見ているようだった。
私は、会社が実態の無い子会社を作りそこへ出向を命じられて2年。
その実体のない子会社勤務2年間の時代に、会社の中はガラッと変わっていた。
会社は組織で仕事をする。私のような労組の御用化に最後まで抵抗した人間はもはや会社の中では少数派で異物的な存在になっていた。

あの当時の仲間は、バラバラにされて一人も残っていない。
人間砂漠の中に一人残されたような気分だった。他の社員は、労組の御用化に賛成した裏切り者にしか見えないのだ…。その中で仕事をする…地獄である。

そして、何故か場面は、室蘭に転勤を命ぜられているという設定だ。
そこで、目が覚めた!! 夢だった。悪夢だ。

何故に、大昔の事を今頃になっても見るのだろう。それも、楽しい夢なら良いが、悪夢だ。人間、嫌な事は忘れたいのだが…。

 昔の話だが、42歳で会社を辞めるまで私は日本のガス専門商社の社員だった。
今思うと若気の至りもあったが、20代の血気盛んな頃は労組の結成から活動で先頭になって活動していた。

 今の時代は労組の存在はどこに行ったのかと思うほど影が薄いが、今から40年前の日本は労組の無い会社は組合が結成されてイケイケどんどんの世界だった。
日本全体の経済成長の中で会社は儲かっているのに、社員の給料は安い労働条件は悪いという環境で、労働者の権利に目覚めた者たちがあちこちで労組の結成に立ち上がった時代だ。

 今と違い、あの頃は(記憶が不確かだが)「総評」と言う労組の全国組織が存在していた。今の様に右と左に分裂していない時代だった。
太田ラッパと言われて有名な委員長がいた。正に労組にとって良き時代だった。

 会社の圧力を撥ね除けて労組を結成して賃上げなど労働条件の改善を組合はどんどん要求して給料も急速に上がった。
一部上場の大企業に会社はなっていたので、ある地方の営業所の若い女子社員の給料がその親父の給料よりも良くなって、親父がショックを感じている。などと笑えない話もあったりした。

 その会社の労働組合の活動を私は先頭を走っていた。
労働組合の活動を先頭を切って走るような人間は正義感が強くて無私の精神をもった人物が多い。

「1人は皆のため、皆は一人のため」「良き組合員は良き労働者」などとスローガンを掲げていた。今の時代には信じられないほど労働者の権利が無い時代から権利を勝ち取って行った時代だ。

派遣労働などと、あの頃の時代の人間が聞いたら驚いて飛び上がるような今の時代は、労働者に無権利な時代になってしまった。
本当にあの頃は、労働者にとって良き時代だった。

昔話をすると年寄りだと言われるが、そう私は年寄りなのだ。年寄りで何が悪い。
人間は誰も若者から年寄りになって、そしていつか死んで行く。
これが当たり前のことなのだ。
それが、「労害」などと言う言葉があるらしい。
悲しいことだ。天に唾する言葉だ。

今のような時代になってしまった事に責任も感じるが、しかし私は私なりに日本を良くしようと闘ってきた。その結果が今なのだ。

日本で暮らせずにベトナムで暮らしている…。
でも、今の私は幸せだと思っている。地位も金も無いが、心の中に幸せ感がある。

しかし、時々、昔の嫌な悪夢を見ることがある…。朝、4時の悪夢だった。


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2010年7月24日土曜日

検察審査会の問題点

前々から気になっていた問題について江川紹子氏のブログの情報が飛び込んで来ましたので以下に張り付けます。


…………………………………………………
◆これでいいのか、検察審査会

 http://www.egawashoko.com/c006/000326.html
2010年07月23日

 東京都内の飲食店経営会社の社長から現金約30万円を脅し取ったとして6人が恐喝で逮捕され、不起訴となった事件で、東京第4検察審査会は、この会社の役員1人について「起訴相当」とする議決をした。
 東京地検はこの6人を、「起訴猶予」にしていた。犯罪としての要件は満たすけれど、あえて起訴するまでもないという判断だ。この点で、犯罪事実の立証そのものができなずに「嫌疑不十分」で不起訴とした民主党の小沢一郎氏の政治資金を巡る事件とは、大きく異なる。
 今回の事件は、元はと言えば店の共同経営者同士の利益の配分を巡る民事上のトラブルであるし、被害金は返却されている。さらには逮捕後の被疑者の態度なども考慮されたはずだ。検察はわざわざ国費を使って裁判にして犯罪者を増やすほどの意味はない、と判断したのだろう。
 一方の検察審査会は、被害者の主張を重視し、その被害感情を汲み取って、検察の判断に異を唱えた。被害者側からすれば、被害者重視の「市民感覚」によって検察審査会が存在感を発揮した、と言うことになる。
 検察側はもっと被害者が納得するような対応なり丁寧な説明なりをしなければならない、という「市民感覚」による意思表示とも読める。
 
 ただ、議決はそれだけで終わらなかった。
 検察審査会の議決要旨は、「起訴相当」の結論を書いた後、わざわざ民主党の横峯良郎参議院議員の名前を挙げて、捜査批判を行った。
 まず、横峯議員は<いわば参謀のような活動をしており、深く犯罪に関与している>と断定。それにも関わらず、取り調べ対象にならなかったことについて<弱い立場にある者だけが捜査の対象になっているのである。余りにも不公平で適正を欠く>と捜査を非難し、そのうえで<捜査機関は国民の信頼や期待を裏切ることのないよう厳正公平に捜査を行っていただきたい>と注文をつけた。文章に、憤懣やるかたないといった感情がほとばしっている。
 検察審査会は捜査の全課程を検証する機関ではなく、求められているのは検察の不起訴処分に対する判断だ。そもそも横峰氏は、被害者からの告訴対象にもなっておらず、今回の審査対象でもない。そうした人物について、ここまで言及したことに、「踏み込みすぎ」という批判も起きている。
 小沢氏を巡る事件でもそうだったが、政治家、とりわけ与党議員の名前が出てくると、検察審査会のメンバーは俄然、使命感をかき立てられるのだろうか、ついつい前のめりになり、感情的な発言も多くなるようだ。
 

 この東京第4検察審査会は、4月下旬に鳩山由紀夫首相(当時)の資金管理団体で虚偽の収支報告書が作成された件で不起訴となっていた鳩山氏に関し「不起訴相当」の議決をしている。その議決要旨の最後に、政治資金規正法が<政治家に都合のよい規定になっている。選任さえ問題がなければ監督が不十分でも刑事責任に問われないというのは、監督責任だけで会社の上司等が責任を取らされている世間一般の常識に合致していないので、本条項は改正されるべきである>という意見が強く主張された旨の付言がある。
 

鳩山氏を「起訴相当」にできないことへの無念さがにじみ出ている議決をした当時のメンバーが、この検察審査会にはまだ半分残っている。その無念さが、横峯氏は「与党の議員=強い立場」だから捜査対象にならなかった、という見方につながり、捜査機関への憤りとなって噴き出したようにも思える。
 そういう事情が背景にあるとすれば、横峯氏の名前がなければ、検察審査会がこれほど被害者に感情移入しただろうか、という気もしてくる。検察側の判断に異議を申し立てるにしても、「起訴相当」までいかずに、「不起訴不当」程度で済んだのかもしれない……これは、私の想像に過ぎないのだが。
 
 閑話休題。政治家は、一般市民よりはるかに厳しくその言動をチェックされるのは当然だ。
 横峯議員に関しては、私自身も、この事件への関与が取りざたされた後の態度は必ずしも誠実とは言い難い印象が残っている。そもそもトラブルが起きている先に、プロレスラーを紹介するという発想が、理解しがたい。また、彼が参議院議員にふさわしい仕事をしているのかについても、疑問を抱いている。なので、国民から様々な批判を受けたり、メディアに報じられたりしたからといって、かばい立てをしたいとは全然思わない(もっとも、衆議院が解散された2日後、逮捕された6人はすでに釈放されているにもかかわらず、2つの週刊誌に横峯氏の関与が報じられたことには、総選挙を前にした警察の意図的なリークの臭いもするのだが)。
 

しかし刑事責任は、道義的責任、民事責任、あるいは政治的責任とは別に考えるべきだ。
 起訴をすれば、法廷で検察側は証拠に基づいて有罪を立証していかなければならない。裁判の場では、雑誌など報道から得た情報や印象などは排除される(ことになっている)。そういう中で有罪判決が得られる見込みがなければ、検察は起訴はしない。
 小沢氏を巡る二つの議決といい、今回といい、検察審査会のメンバーは、刑事責任の意味や裁判での立証などについて、どの程度事前にレクチャーを受け、理解していたのだろうか、という疑問がわく。
 裁判員制度は、初めて導入されることもあって、事前に模擬裁判を重ねるなどの準備を行った。予断を持った人は裁判員に選ばれないようにする仕組みもある。そのうえで、実際の裁判の前に、法廷に出された証拠のみで判断するように、裁判員たちにレクチャーがなされている。
 一方の検察審査会は、制度としては以前からあった。なので「起訴相当」の議決2回で強制起訴とすることになり、権限が大幅に強化された時にも、裁判員制度の導入ほど注目もされず、事前にどのような準備が行われたのか、よく分からない。
 審査にあたって、予断を持つ人が排除されているのかも、分からない。事前にどのようなレクチャーがなされているのかも分からない。どういう証拠に基づいて判断したのかも分からない。検察官が呼ばれて説明をしたのかどうかも、その説明内容も分からない。補助員の弁護士がどういう意見を述べたのかも分からない。それどころか、議決文全文も明らかにならない(発表されるのは、あくまで「要旨」だ)。
 

裁判員は本人の意向を確認したうえで、匿名のまま裁判終了後に記者会見で感想などを述べることがあるが、検察審査会の場合は、それもない。
 最終的に無罪となったとしても、誤った起訴をされて刑事被告人となるだけで、一般人の場合は職を失うこともあり、公務員でも休職を強いられ、政治家は政治生命を失いかねない。起訴の権限を持つということは、それだけ重い責任を負うということだ。
 先日、金沢地裁で盗難クレジットカードを使ってコンビニのATMから現金を引き出した、として窃盗罪で起訴された男性が、鑑定の結果犯人とは別人と証明され、検察側は無罪の論告をし、謝罪した。
 「嫌疑不十分」で不起訴となった人が、検察審査会で2度の「起訴相当」を経て強制起訴された場合、裁判で無実が明らかになったら、どうするのだろう。検察審査会によって、間違った起訴がなされた場合、いったい誰が責任をとり、誰がどのように謝罪するのか。損害を回復するための措置を、誰がどのようにしてやってくれるのか。
 

強い権限と重い責任を担っている検察審査会のあり方が、果たして今のように不透明でいいとは思えない。予断を排し、証拠のみによって審査を行う工夫や、検察官や補助員弁護士の説明や証拠の標目は公開するなど、改善すべき点は少なくない。早急に、検察審査会の問題点を洗い出し、よりよい制度にするための議論を始めるべきだ。



*******************************************************

<貼り付けおわり>

地獄から天国へ!

今日の午後は雨が断続的に降り、夕方から夜もますます激しくなり外出をあきらめて有り合わせの食べ物で何とか飢えをしのいだ。

外出をあきらめたので、期末試験の作文の採点を、添削の残りを仕上げた。
やっと終了ということでチエック用紙で確認したら、大変!!

答案用紙が1名分足りない。何回確認しても無い?!!

大学側から預かった時にはあったのだろうか?チエック用紙には確認の印があるから…。その時に枚数を確認して居ない自分が甘い。反省しても遅い。

とにかく、無いのである。

預かってからの自分の行動をふりかえる。
2軒のカフェでと採点作業をした。その時に、枚数を確認していない。反省。

いつも行くカフェに取り合えず行ってみよう。
とまだ雨が止まない中をそれどころではなくバイクに乗って出かける。

カフェについたら、いつもだとまだ営業中なのに、大雨なので閉店作業をしていた。
「もう閉店だよ」とスタッフは言うが、そうじゃ無いコーヒーを飲むのでは無い。

作文用紙を見せながら、この用紙が忘れていないか調べるように頼む。最初は私の言葉が通じなかったがジェスチャーも交えて説明する。こちらは、必死だ。

二階の席でコーヒーを飲みながら一昨日私は作業していたので、従業員は二階に調べに行った。
待つこと、数分、二階からおりて来た男の従業員は一見何も持っていない。

ダメだったか、私が落胆しかけたらシャツの下から
用紙を出すではないか!
オイオイ!

あったのだ!!!

仮に、カフェで私が忘れていても、もう無いだろうな、と思っていたのだが….

ここは、ベトナムだ。忘れ物が出てくるとは!!
最高に嬉しかった。私は思い切り、嬉しさを表現した。

男の従業員
に思わずハグした。

正に地獄から天国にの気分だった。
ベトナムがますます好きになった。

しかし、今回の件は、私の不注意だ。幸いにも出て来たから良かったが。反省。まだまだこのベトナムで生きるには甘いな。

2010年7月21日水曜日

一時帰国中、早くホーチミン市へ帰りたくなった!

 二年ぶりの日本、一時帰国してみて色々と考えさせられることが多かった。

今回の帰国の目的は前にも書いたが、一つは体の精密検査をすることだった。
もう一つの目的は母親に会う事だった。
実は母親は昨年の暮れに特別養護老人ホームに入所した。その時に私は立ち会う事ができなかったので、今回その施設に挨拶を兼ねて訪問した。

その施設は、田舎の同じ町内にあるので実家からも遠くない。
温泉施設のすぐ側にあるので、私は温泉に入浴の行き帰りに母親に会いに行っていた。

母親は90歳になるが、膝が痛い以外は悪い所も無く元気である。私の様にお腹を切るような病気もしていない。
私の兄弟は全員田舎を出ているので、長年母親は父親が亡くなってから一人暮らしでがんばっていた。

元々貧農なので質素な食生活だった。米や野菜は自給自足でそれ以外の魚などは隣の街のスーパーや農協まで買いに行かなければならないが、田舎の助け合いで何とかやっていた。

一度、若い時に田舎を離れた人間にとっては田舎の生活は息苦しいことが多い。独特の人間関係というか付き合いの仕方がある。緑は多くて自然が豊かで良いなと思うのだが、今でもその田舎に住む事には何故か私には抵抗がある。

何はともかく、母親が施設に入ったので、今回の帰国時に施設に訪問した。
施設は数年前に立て替えられて新しくてきれいな建物だった。
真ん中に広いフロアの食堂やホールがワンフロアであり広々とした感じがする。

入所者は個室でエアコン付きの部屋だ。施設の真ん中は庭になっていてそれを取り囲む様に各部屋が存在しているので、各部屋は太陽の明かりが入る。

私は遠くベトナムに住んでいるし、いつも自分は親不孝者だと思っていた。親独り自分で面倒も見れないということを情けないと思っていた。

そういう点で、このブログ仲間のユートピアの寅さんは母親をベトナムに連れて来ていてその母親の最後をベトナムで看取られている…。それはすごいことだと思っている。
私にはその真似はできないのである。

結果として、私は母親の特別養護老人ホーム入所という方法を選択した。正直、心の葛藤はあった。母親も最初は抵抗感があったようだ。
しかし、膝が歳とともに痛くなってくることもあり断念したようだ。

でも、今回帰国して、ホームで生活している母親の姿を見て、入所できて良かったと思っている。
もちろん、子どもや家族と共に生活できればそれに超した事は無いのだが、それができない家庭もある。

せっかく帰ったので母親に一晩でも一緒に自宅で泊まるかと聞くと、心は揺れたようだが足も痛いしバリアフリーのホームの方が良いと言って断られた。今では、そのホームが母の自宅なのである。

田舎は今年の冬は例年になく大雪だった。そんな時には、足の痛い一人暮らしの老人にとっていかに大変か。それを考えると、その冬の大変さを経験しないで済んで良かったと思う。

何遍も書くが、このベトナムに年老いた親と一緒に住む日本人は居られると聞く。そのことには私は心から敬意をもっている。私にはできないことをやっておられると尊敬している。

ふと、自分の行く末は?と思うが、人間死ぬ時には死ぬと言うブログ仲間の秀先輩の言葉を思い出した。達観也。




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2010年7月18日日曜日

道路は立派だが…

日本に一時帰国して感じたことの一つ、田舎の道路はベトナムの大都会
ホーチミン市の道路の何十倍も立派だこと。

しかし、その道路の上を私の運転する車は何キロも対向車無しに走る。ベトナムのホーチミン市とエライ違いだ。
無論、ベトナムの田舎の道路はホーチミン市ほどバイクや車は多く無いが、道もそれほど立派ではないだろう。

そんな田舎だが、国道というだけで新しいバイパス道路が完成していた。交通量の少ない田舎の国道で必要な工事だったのか?

田舎は日本でも最後に残った保守王国で今回の選挙でも自民党議員が強かった。
農業県だが米だけでは飯が食えないので、多くの農家は現金収入を道路工事などの労働で稼いでいた。

その道路工事などの公共工事が大幅に減る中で、田舎の将来はお先真っ暗だと田舎の同級生の友人は嘆く。その同級生は材木屋を営業する傍ら自民党の支部長などをやっている様だ。

別の同級生は、若い働き手の無くなった農家の田を引受けて米を作っている。私の家の田んぼも彼に頼んでいる。
多くの農家があと10年もすれば後継者は殆どいなくなるだろうと彼は言う。
今までの公共事業には無駄なものもあったと言っている。

日本の農業をダメにした張本人は農協だと私は思っている。
日本の農業政策はNO政だと喝破した評論家が昔いたが、今ではその農協を批判する勇気ある人間も居ない。

農協も官僚組織と同じで、日本の農業を世界に通用する強い農業にしないで、農協組織のための農業政策を行ってきた。
農協も自民党の集票組織のひとつだった。

今回、帰国して田舎の現状を見るに、公共事業が無くなって路頭に迷うような結果にしたのは長年の自民党政治の末路をだと思った。しかし、その田舎はそれでも自民党が選挙では強い。

日本の田舎では似たような状況が多いのだろうと思う。
長年の自民党の公明党の政治のツケは大きいい。

2010年7月17日土曜日

南米パラグアイの日本語は世界一!/転載記事

日本に帰国時に下記のような記事を発見。日本語教師の端くれとして色んな日本語教育の現実があるものだと…。以下転載記事

日系社会「世界一堪能」なパラグアイ 日本語教育の危機
2010年7月1日(木)08:00

(産経新聞)
 □教員・教材の不足…就職にもつながらず

 サッカーW杯決勝トーナメントでの対戦で日本でも知名度が急上昇したパラグアイ。この南米の小国に住む日系人が、世界各地の日系人の間でも際だって上手な日本語の使い手だという事実は、日本ではあまり知られていない。世代交代が進むとともに失われがちな日本語能力が、なぜここでは保存されているのか。理由を探るうち、パラグアイの日本語教育が直面する危機も浮かび上がってきた。対戦の余韻さめやらぬ現地から報告する。(同国中部ラ・コルメナ 松尾理也)

 ■遠く離れた土地

 「明日の試合で、パラグアイが勝つと思う人、手を挙げて」。居並ぶ小学生たちに日本語で問いかけると、全員の手がさっと挙がった。

 首都アスンシオンから車で約2時間。パラグアイ最古の日本人移住地ラ・コルメナの一角に、現地の子供たちを対象にした日本語学校がある。

 日本人が訪れることはまずないこの町で、日本語の質問を子供たちがすぐに理解する様子は、驚き以外の何物でもない。

 「言葉だけではなく、その背後にある文化への尊敬があって、非日系の子供たちも入学してくるんです」。そう説明する川端まり校長もラ・コルメナ生まれだ。その日本語に、外国なまりは感じられない。

 ■独特の日系社会

 パラグアイの日系人口は約7000人と、決して多くはない。さらにパラグアイと日本とのビジネス上のつながりや文化交流は決して密とはいえない。

 そんな中で日本語が保存されてきた理由は何か。現地の意見を総合すると、まずパラグアイの日系人は主に、ラ・コルメナをはじめ原生林を切り開いて作った移住地に居住していたため、一般社会との距離があったことが挙げられる。さらに、パラグアイ社会全体の開発がまだまだ遅れている中で、社会からの同化圧力がブラジルやアルゼンチンと比べ弱かったのではないか、との見方もある。

 その結果、南米各国の日系人社会の中でも、「パラグアイの日系人は飛び抜けて日本語がうまい」との評価が定着しているという。

 首都アスンシオンにも、日本人会に併設される形で日本語学校がある。日系人の栗田みすいさん(24)が出迎えてくれた。もちろん母語はスペイン語だが、その日本語は日本人とほとんど区別がつかない。

 アスンシオンにはまた、今年で設立から9年になる日本パラグアイ学院がある。授業はスペイン語と日本語をほぼ半々で行う。現在駐日大使を務めるナオユキ・トヨトシ氏らが私財を提供してできた学校だ。

 日本語教育の国際協力機構(JICA)シニアボランティアとして現地に赴任している村田淑子さん(66)は、「地球の裏側で美しい日本語が継承されているのを知り、本当にうれしくなった」と話す。

 ■世代交代の波

 だが課題は山積している。教員や教材の不足は慢性的。さらに、せっかく日本語を磨いても、パラグアイでは就職など現実の利益にはつながらない。

 ラ・コルメナ日本文化協会の金沢要二会長は「パラグアイの日本語はこれまで、言葉を心の支えとする日系人の思いと、日本政府からの援助で奇跡的に守られてきた」と話す。だが、世代交代が押し寄せる中で日系人がいつまでも同様の思いを持ち続けるとはかぎらない。

 「今やグローバリゼーションの時代。ひたすらに守ってきた日本語も、南米各地の日系社会同士で支え合っていくといった発想の転換が必要じゃないかと思っているんです」。日本語を守り続けたいと願う栗田さんは今、そんなふうに考えている。


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出国最後まで不便で不快な事の一つ成田空港で




 一時帰国が終わり中部国際空港から成田経由でホーチミン市へ帰る途中、中部も成田もネットは繋がらなかった。
国際空港と称する成田では「セコイ」としか思わない状況だ。

写真の成田空港のサイトを見てほしい。
Wi-Fiで繋がるのは標記のサイトで、そこには有料のプロバイダーの紹介があるだけ。無料のサイトは各企業HP。
こんなのは詐欺に等しい。

空港内で連絡のためにメールしたくても、これではできない。
有料のプロバイダーも24時間500円からとあるが、わずかメールするだけなのにこれは利用者を馬鹿にしている。

今回の一時帰国で感じた事は、このWi-Fiの件では日本全体が利用者の利便性を全く考慮していない国だと感じた。日本人の私ですら思うのだから外国人の旅行者ならもっとだろう。
これで、外貨獲得のために旅行者を日本に招きたいと言っても、やってることはあまりにも旅行者の利便性を考えてない鎖国状態と変わらないと言うのは大げさか。

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2010年7月8日木曜日

どこに投票すればよいのか分からない参議院選挙/転載記事

「マガジン9条」ブログ

◆第42回どこに投票すればよいのか分からない参議院選挙

(森永卓郎の戦争と平和講座)

http://www.magazine9.jp/morinaga/100707/

 「参議院選挙で、どの党を支持すればよいのかよく分からない」。そういう話を私の周囲で頻繁に聞くようになった。昨年8月の総選挙で、あれだけ明確だった民主と自民党の政策が、同じようなものになってしまったので、判断がつかないというのだ。

 「実際に政権を握ってみたら、できもしない約束をしていたことに民主党は気付いたのだ」、「民主党も大人になった」。そう評価する政治家や評論家も多い。

 しかし、私はそうは思わない。財源がないから、マニフェストに掲げた政策が実行できなかったのではない。民主党は政策を抜本的に変えたのだ。

 前回も書いたが、民主党には、政策や理念が根本から異なる二つのグループがいる。便宜的に、それを左派と右派と呼ぶことにしよう。

 外交・安全保障の面では、左派の人たちは、アメリカとも、中国とも対等に付き合っていこうと考える。だから、米軍の普天間基地を辺野古に移転することには反対だ。戦後65年も経って、これ以上沖縄に負担をかけ続けるわけにはいかないし、ましてや新たな米軍基地を作ることなどもってのほかと考えるのだ。

一方、右派の人たちは、日米同盟は日本外交の要であり、米国が辺野古以外の選択肢を許さない以上、普天間基地の返還を受けるためには、辺野古への移設はやむを得ないと考えるのだ。

 経済面で、左派の人たちは、安定と平等を重視する。だから、景気が低迷している現状では、ある程度の財政出動は必要だと考えるし、金融緩和も必要だと考える。財政赤字は、景気拡大による税収増で穴埋めしようとする。また経済的な平等を重視するので、逆進的な消費税を増税することには反対であり、高額所得者や資産家、あるいは大企業の税負担を重くすべきだと考える。

一方、右派の人たちは、成長と活力を重視する。経済の足かせとなる財政赤字は早期に解消する必要があるが、経済活動の中心である資本家や大企業を国内にとどめるためには法人税を減税せねばならず、財政赤字のツケは一般国民が負うべきだとして、消費税の大幅な増税を求める。



民主党左派 【基地移転反対・経済的安定と平等・財政出動 】

民主党右派 【日米同盟重視・法人税減税・消費税UP 】  



 小沢前幹事長の時代には、民主党は左派が大きな力を持っていたが、菅総理・枝野幹事長の政権に変わってから、民主党の政策は完全に右派が握るようになってしまった。普天間基地の辺野古への移設や、あれほど慎重だった消費税の引き上げに前向きとなったことは、右派政策の典型だが、その他にも高速道路の無料化という公約を「高速道路原則無料化」にすり替え、中小企業だけだった法人税率の引き下げを大企業も含む法人税の引き下げに切り替えてしまった。

また、マニフェストには残ったものの、民主党政権が掲げた主要政策である「7万円の最低保障年金」について、仙谷由人官房長官は6月29日の記者会見で、「あの時点では7万円程度が財源等の関係で望ましいし妥当かなという判断で書いたが、今後それが上がることも、より低い金額が設定されることもあり得る」と述べた。

さらに、菅政権になって、子ども手当は、当面月額1万3000円の支給で止めるということになったが、民主党政権は、最大月額1万円の児童手当を廃止し、月額3000円の子育て応援特別手当を執行停止にした。これで、来年から扶養控除を廃止したら、世帯によっては、むしろ負担が増えてしまうのだ。「子育てを社会として支援する」という理念はどこかに飛んでいってしまった。

 繰り返すが、民主党政府は、財源が厳しくて、施策を打てないのではない。左派から右派へと、政策を根本から切り替えてしまったのだ。

 正確な数字ではないが、私の目に映る範囲では、民主党の国会議員は左派が6割で、右派が4割、自民党の国会議員は左派が4割で、右派が6割といった比率だ。本当は、政界再編をしてもらって、左派と右派で二大政党制を作ってもらうのが、国民にとって一番分かりやすくてよいのだが、なかなかそれは進まない。

それでも、これまでは左派の政策を支持する人が民主党を選び、右派の政策を支持する人が自民党を選ぶという選択が可能だった。ところが、民主党のなかで少数派だった右派の人たちが実権を握ってしまったことから、有権者の選択が難しくなってしまったのだ。

 特に悩みが深いのは左派の政策を支持する人たちだろう。彼らの選択肢は二つしかない。一つは、左派の政策を掲げ続ける少数政党の候補者を選ぶことだ。ただ、そうすると自分の投票が死に票になってしまう可能性が高くなる。

もう一つの選択肢は、民主党であれ、自民党であれ、候補者自身がどのような政治理念を持っているのかということをきちんと調べて、左派の理念を持つ候補者に投票することだ。ただし、その場合は仮にその候補者が当選しても、少なくとも当面は、その理念を実現できない可能性が高い。政党政治が行われているので、党の理念が議員個人の理念よりも優先されてしまうからだ。

 結局のところ、今回の参議院選挙では、有権者に明確な選択肢がない。やはり、選挙後の政界再編に期待するしか、ないのかもしれない。

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自民党政権にNOを突きつけた「政権交代」のはずが、
気がつけば同じような政策が並ぶ…。
自分の一票を果たしてどこに投じればいいのか、
本当に悩ましいところです。
皆さんは、どう考えますか?

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2010年7月6日火曜日

いいかげんな医者と真面目な医者/その3

 2年ぶりの帰国で、手術をした病院へ検査を受けに行った。
「先生、元気に生きています」と手術をしてくれたA医師に挨拶して元気な姿を見せようと思っていた。

しかし、大学病院でそのA医師を訪ねたら「外に出ました」との返事。
「え……。」
「違う病院へ行きました…」

お土産にベトナムコーヒーを持参したが…。B仕方が無いのでB医師にあげた。
そのB医師は、血液検査もCT検査も各担当部署から「問題無し」と書き込まれた検査結果のデーターを見ながら「大丈夫です」。次の言葉が「カメラ検査をしますか?」
私は慌てて「昨年、ベトナムで検査しました」
「では、大丈夫ですね」B医師のその姿勢は一つでも多くの検査をしようとする態度。誰の為?と疑問が湧く。
検査には金がかかる。患者には負担がかかる。
一目瞭然、病院の為としか私には思えないのである。
2年前には、しつこく私に抗ガン剤を投与しようとしていた。ベトナムへ行く前にも「抗ガン剤を持って行きますか?」と宣った。(内心、持って行くかい!)こんな医師が出世するのだろうか?悲しい。

B医師の肩書きを見ると”助教授”とあった。
2年前は”助手”だったはず…。出世したのか。

ふと、A医師は?と思う。

これからは、私の独断と偏見の空想物語です。

2年前の大学病院での状況。
A医師は優秀な外科医。外科医としての自分に自信をもっている朴訥で飄々としている。
B医師は院内の世渡りが上手。薬品メーカーとの付き合いも多い。手術現場よりは高価な薬品投与などで点数稼ぎがうまい。
2人は同世代であるが、まったくタイプは違う。

そのB医師は助教授になっていた。
では、A医師?なぜ、他の病院に行ったのだろう?
請われて?
それとも、B医師の助教授出世に対して外科医として自信を持っていたのに評価されないので外にでたのか?

実力も無いのに世渡り上手なゴマスリ人間が出世するのは閉鎖的な組織に多い現象だ。
そんな体験を私自身もしてきた。

これは、あくまで私の空想であって、現実では無いが、否定できない直感のようなものがある。

以上は、私の空想物語だが、元気な姿をA医師に見せたかった私の気持ちは一抹の寂しさを感じざるを得ないのである。

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2010年7月5日月曜日

緑豊かな自然/日本の田舎の良さ

 [奥出雲] ブログ村キーワード
今、奥出雲の田舎に一時帰国している。
二年ぶりの帰省だ。
二年前は療養中だった。病気の再発に怯えながら、必ず元気になってホーチミン市へ帰ることだけを目標にこの自然豊かな田舎で病気と闘っていた。

私の家から近くの小さな山道を1時間で往復するコースを毎日の様に散歩していた。
その時、田舎がこんなに緑が豊かな地域だったのかと感動していた。田舎で秋から初夏まで過したのは何十年ぶりだったのだろうかと感慨に耽りながら山道を登っていた。
病み上がりの体に少しきつい山道だったが、深緑の森のオゾンをいっぱい吸いながら英気を養っていた。
それから2年ぶりの田舎の自然は変わっていなかった。
散歩コースを雨の合間に歩いてみた。
心の中で、おかげで元気になりましたと感謝の気持ちを込めて…。

まだ小さいあけびの実が道路の脇に成っていた。これが食べれるのは秋である。確か栗の実と同じ時期のはずだ。

その栗の実も道ばたで手の届く所に成っていた。まだ実は小さい。2年前の秋には散歩途中に見つけて取ったのを思い出した。

こんな自然はベトナムでは体験できないかも知れない。
いや、ベトナムはベトナムの自然があり、メコンデルタ地域では豊富な果物がたくさん取れることを思い出した。



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2010年7月3日土曜日

不便な日本!街中でWi-Fiができない。


不便な日本

 日本に帰国して不便を感じる事の一つ、街の中でインターネットができない。
新幹線の中では出来るらしいが、試さなかったので分からない。
新神戸駅構内で無線LANと表示されていたので喜び勇んでパソコンを立ち上げてみた。

残念ながら、無線LANは使えない。
隣の席の人に聞いたら「使えませんよ」と笑いながら言うのだが何故かは教えてくれない。(こういう時にベトナム人ならもっと丁寧に教えてくれるのに…)

駅構内に「無線LANご利用エリア」や「モバイルコーナー」とあるがパソコンの無線LAN機能があるだけではネットができないのが日本だ。



一方で、カフェなどでもWi-Fiを設置している所はない。

これがベトナムだったら、ホーチミン市などでは多くのカフェではWi-Fiができる。
長時間コーヒーを飲みながらネットをすることができる。
この違いは大きいな。

どうも日本では特定の業者と契約をしていないと使用できないシステムらしい。
急に外国から来た人間が気軽にネットをしる環境には無い。

実に不便だ。


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2010年7月2日金曜日

いい加減な医者と真面目な医者/その2

 病院を退院後、抗ガン剤を飲み始めた。
1ヶ月後、病院で血液検査をして診察。B医師の診察は触診はない、「どうですか?」と聞くだけ。

「薬のせいでしょうか?気分が悪い。」と言うと、パソコン内の検査データを見ながら「肝臓の数値が悪くなっている!どうしましょう。」と言う。

患者にどうしましょう?と言われてもね…。
「薬の量を減らしましょう」と私が言うと「そうするか」となった。

実は、抗ガン剤を飲み始めて気分が悪くなるので、色々とネットで検索して調べた。
「抗ガン剤は毒薬」という内容の資料が多いことに驚いた。

中には現役の医者までが抗ガン剤の服用を拒否している。

これは何なんだ!!

ネットで免疫療法を実施している医者を見つけて、隣の県まで訪ねて行った。
その医者が、現役の医者で同じ大腸ガンになって抗ガン剤を拒否してゲルソン療法を行っている人が書いた本を紹介してくれた。

その本を読み、日本の現在のガン治療に不信を抱いた、

私への抗ガン剤の勧めも、私の為ではなくて「薬の実験の為」ではないかと疑いが出て来た。

本当は飲まなくても良いのに、毒薬を飲まされているのではないか?と疑問が湧いて来た。

しかし、一方で再発するのではないかという不安はある。
医者もそれを言う。

そう言うことが分かってきた1ヶ月後である。
薬の量を半分にすることを医者に提案して了解を取る。
患者が言うのもおかしなものである。

しかし、「抗ガン剤は毒」を知ってから、それを体で体感してから私は薬を飲む気持ちになれない。
高い金を払った薬だがそれからは飲まないで置いたままであった。

一方で、朝昼晩と人参ジュースを飲み始めた。
玄米食も始めた。

抗ガン剤を飲むのを止めてから、気分の悪いのも治り肝臓の検査数値も良くなって行った。
抗ガン剤を飲んでないことを知らないB医師は検査データだけ見て「良くなりましたね」と言っている。
何ともいい加減な医者だと思った。

それからは医師が「もう薬が無くなる頃ですね」と処方箋を書くのだが、その処方箋は使わない高い薬は買わない。医者には薬は飲んでいることにする。医者を欺くことにした。

何のことは無い、私は薬の臨床実験のモルモットになっていたのである。

患者に向いているのでは無くて、薬品会社を向いて仕事をしているB医師を見て、現代の日本の医療現場の問題点を垣間見た気がした。「これではガン患者は救われない」






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2010年7月1日木曜日

いい加減な医者と真面目な医者

[ガン患者] ブログ村キーワード
 先に私はガン患者だと告白したが、その体験からいい加減な医者と真面目な医者の話を書きたい。

3年前、私の田舎の医科大学病院での事。
8時間以上の長時間の手術を担当したA医師は、私から見ると真面目な医師に見えた。
もちろん私の命を救ってくれた医師だから。

そのA医師は手術後「手術では、丁寧に検査しました。これからは何でも美味しい物を食べてください。」と言っていた。
その言葉は、後になって私に深い意味があったのでは?と思わせました。

そのA医師は「薬は毒です」とも言っていたのを忘れない。
その言葉の本音は「むやみに薬を飲まない方が良い」だったのではないかと後日思う様になった。

私の腹を切ってガン細胞を取り除いてくれたそのA医師に私は奇妙な愛を感じていたのではなだろうか。

一方、手術後入院1週間目ぐらいだったか、病理検査の結果抗がん剤投与をした方が良いとの病院側の説明だった。
その説明は執刀を担当したA医師ではなくて別のB医師だった。

再発防止の為に半年間の抗ガン剤投与を勧めます。
と医者に言われたら、嫌ですと言う患者はいないだろう。

その時に病院側からは色々な書類にサインをさせられるのだが、今一つすっきりしない気持ちだった。

その書類の中に臨床試験の為に抗ガン剤を投与するというような内容があったのが気になっていた。

でも、患者の為に再発防止の為に抗ガン剤を投与するのだろうと思い了解した。もちろん薬代は患者負担だ。それがとても高い薬代だった。

手術後初めての教授の往診があった。よくテレビで見るシーンである。教授を頂点とする大名行列の雰囲気だ。
その教授の往診の時に、B医師は教授に耳元で何か囁いているのが見えた。どうも抗がん剤投与について説明しているようだった。

そのB医師の態度は、正に権威ある教授にヘイコラする姿だった。一方で、A医師はヒョウヒョウとした雰囲気だった。
腕一本で仕事する外科医の自信を見たような気がした。

その後、担当医師はA医師ではなくB医師になった。
手術をしたA医師は術後の私の腹を見たのだが、B医師になってからは一度もそういう診察はなかった。
ただ検査結果データをパソコンで見るだけであった。
データしか見ない医師であった。

教授もA医師も診察時には必ず触診をしたのだが…。

(長くなるので、中断)


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