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2011年6月27日月曜日

ホイアンの風景5

日本橋のすぐ近くの川沿いの建物、入った最初の家は絵を展示していた。写真撮影は断られた。
次の裏の家との間に上のような不思議な空間があった。
そして、写真のようなランタン、提灯や小物の民芸品やお土産を売っていた。
娘達が居る所ではシルク織物などを売っていた。
この写真のように、川沿いの建物から裏の又裏の建物まで一階部分は通り抜けられるようになっているのがホイアンの建物特徴のようだ。これは台風シーズンは一階部分は洪水になって水に浸かってしまうと聞く、その対策ではないかと推測する。水は一階部分は浸水して又引いて行く、そのための障害物は無い方がいいのだろう。
それとホイアンの建物はこのように木造である。これが日本人には郷愁を呼ぶのである。400年前には日本人街だったというこの地域、だから木造建築なのだと勝手に納得。もし中国人が最初に住んだら、木造にはならなかったのではないだろうか。





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ホイアンの風景4/ミークアン(ミー食わん??)




ミークアンと言うのはホイアンやダナンの有名な麺料理だ。(ミー食わん??)フォーとは違って麺つゆが少ない。面も少し違う。独特の面料理である。
フォーとは違って野菜の付け足しが少ないのは個人的には不満だがホイアンやダナンへ行ったら食べてみる価値はある。

当初、ミークアンと言う名はピンと来なかったが、ミーは麺、クアンはダナンやホイアン地域の名前だと推測する。
そこで、爺の駄洒落「ミーは自分、クアンは食わん=私は食わん」失礼しました。




上はそのミークアンを食べてる店から外を撮った写真。陰陽の差が大きい。



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2011年6月26日日曜日

ホイアンの風景3

ホイアンの旧市街へホテルから歩いて行く途中で、ふと立ち寄った所が縫製工房だった。
ホイアンでは有名なブランドの会社らしいと後で分かった。
中には製品の展示もしてあり、販売もできるのだろう?興味は無いので聞かなかったので詳しいことは分からない。
でも、後でネットでの情報だと、この会社の何処かで働いている日本人女性がいるらしいことが分かった。会ってみたかったな。
ホイアンの中心街より少し離れているが、ご覧のように静かな雰囲気の通りに面している。なお、このブランドの店は市内に何カ所かあることが後で分かった。YALY

2011年6月24日金曜日

ホイアンの風景2

さすがホイアン、世界遺産だけあって欧米人の観光客が多い。
このお寺もゆっくり見学したいが今回は時間がなかった。
この道はお昔は日本人街だったと聞くと何か郷愁が湧く。やはり私は日本人だ。しかし、その後は中華街になった。
日本橋[日本橋] ブログ村キーワード
雲の動きが怪しい、この後凄い勢いで雨が降って来た。



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2011年6月23日木曜日

東北大震災直後から三ヶ月かかって届いた、ベトナム人から日本人への見舞いの手紙

[大震災] ブログ村キーワード
東北大震災からもう3ヶ月が経過した。今ごろ、その大震災のお見舞いの手紙を貰った。いや、正確には、大震災直後に出された手紙だが、途中で止まっていたのである。
実は、大震災直後に私は大学の授業で少し話をした。それをある学生が家族に話したのだろう。その学生の兄が、ホーチミン市のある大学の先生をしている方で日本語が堪能だ。手紙の文面からすると大震災直後に書かれたものと推測できるが、書かれた手紙は我が大学の事務所に届けられたようだが、何故かそこで止まっていたようだ。
今日、私が用事で大学の事務所に行ったら、事務員がその手紙を私に渡してくれた。開封されていたが、日本語とベトナム語の二通の同じ内容だった。
日本語学科のベトナム人責任者の先生の所に止まっていたものと推測するが、私宛の私信を開封したこと、仮に開封しても文面からしても私に早く連絡するなり届けるのが常識だと思うのだが…。出した相手の方にまず失礼だし、私にももちろん失礼だ。
これがベトナム人の常識だとは思いたくないが、不信感が拭えないな。(帰宅して、学生たちにこの件を話すと「ベトナム人の常識ではありません」と反論するのだが)
ともかくも、頂いた手紙の内容は日本人として心に響くものだし、日本語の正確さにも驚いた。文面からは私個人ではなくて、日本人に対しての見舞いの内容なので、このブログ上で掲載します。
ーーーー手紙文ーーーー
拝啓
(前略)この数日は先生の一生の一番辛い時期でしょう。自分の民族に突然大惨事が起きた様子を見ている方の苦痛、自分の同胞を直接助けられない、故郷から遠くは慣れて暮らす方の苦痛であります。
下記の文は先生の心の損失を補うことは決してないでしょう。誰も、どんな素晴らしい言葉も、どんな激励もできません。
高校時代から私は日本の人々と文化を調べるのに夢中になっています。十七歳の時、田舎のブンタウで「日本文化コンテスト」に参加しました。私と友だちは日本国総領事館からプレゼントを頂きました。この中に素敵なカラーペンシルと紙人形がありました。それからもう十年が経ちましたが、このカラーペンシルは私の机の引き出しの中にまだあります。これは立派な民族としての生徒時代の記憶を表すきれいな記念です。
やはり、先生の民族の、災害での冷静さと素質に敬服すると言わない訳にはいきません。私とテレビの数百万人の視聴者は日本人の皆さんがきちんと一列に並んで秩序正しく食べ物と水を受けるのを見ています。押し退けないし、叫ばないし、強盗も無し…ご両親と妹さんが亡くなった、ある9歳の男の子が、寒い中できちんと一列に並んで、警察から貰った食べ物を他人に譲りました。私は、それを知ってすすり泣きました。又、流行の服を着ている裕福そうな女子学生が、救助団から頂いて帰って、避難所のお年寄り達に配達しました。それに、あるベトナム人留学生は批難している時、見も知らぬ日本人女性に店のパンを譲って頂きました。
先生の民族はとても冷静で不屈であり、偉大で、謙虚であります。
このささやかな心をこめて、先生と先生の民族が意思の力で今回の災害を克服し、前に向かって進み続けるのを祈っています。
この手紙に紙鶴を添付します。実は私は、子どもの頃から折紙に興味がありました。そして、日本の文化で、鶴は幸福、夢の象徴と知られています。
この紙鶴を通して、先生のご家族と日本の皆さんにどうぞよろしくお伝え下さい。
敬具


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ホイアンで出会った素敵な日本人!

[ホイアン] ブログ村キーワード
今回のホイアン旅行で出会った素敵な日本人を紹介しよう。
まず一人は、Twitterが「よっしー」君。私がホイアンへ旅立つ直前に書き込んだTwitterに反応して連絡くれた青年だ。

ホイアンのホテルでインターンを6月から始めたばかりだが、ホイアンを訪れる日本人に何かをしてあげたいと、まだホイアンが不慣れにも関わらず親切に案内してくれた、まだ大学を卒業したばかりの良い少年いや青年だ。

私個人的には、我が息子に似ているので、親近感をもった。
よっしー:http://twitter.com/#!/yossi11111
http://yossysuccess.blog92.fc2.com/

3ヶ月もすれば、ホイアンデップチャイになっているだろう。

もう一人は、そのよっしー君が紹介してくれた、ホイアンで日本語教師をしている青年の中村さんだ。
http://twitter.com/#!/HoianZico

日本企業の社員としてホイアンに派遣されて、中学校で日本語を教えたり他の仕事もしている爽やかな青年だ。学校では生徒に人気があるだろうと思う。ホーチミン市のある有名な日本語学校の教師の職も決まっていたらしいが、それを蹴ってホイアンに魅かれて来たらしい。(校長は惜しい人材を逃した)

ホーチミン市よりもホイアンで仕事する方が良いと思う。
私も5年前にホイアンに来ていれば、展開がまた違っていただろうなと、ふと中村さんが羨ましく思う。

上記の2人と一緒に食事をしながら、情報交換をしました。
中村さんは3ヶ月、よっしー君は来たばかりのホイアン、1年もすれば立派なホイアンデップチャイになってるでしょう。これからのご活躍を期待しています。同時に、ホイアンで仕事できるお二人が羨ましく感じられます。

最後に紹介するのが、U-cafeと言う名のカフェを昨日オープンしたばかりと言う臼田さん。
上記の2人と食事した後でそのカフェへ3人で訪問しました。場所は、日本橋のある川沿いにどんどん海の方へ行くと、川沿いに開放的な建物のカフェが見えて来ます。


写真の様にカフェ全体が開放的なので台風の時は大丈夫かなと思ってしまう。その臼田さん、私と同世代かなと思うのですが、ホイアンでこんな素敵なカフェを運営して生活できるとはこれまた羨ましい限りです。


詳しいことをお聞きしたかったのですが、今回はあまり聞けなかったので次回は是非に…。

カフェのある地域は中心街よりは少し離れていますが、何といっても世界遺産のホイアンです。土地の値段も高く、値上がりも凄いようです。私のような貧乏人は目がテンになるようでした。ホイアンを訪れる日本人の方は是非、訪問して情報交換されたら良いですね。
カフェの住所:Than Nam Cam Chau,HoiAn,
電話:84(0)1225453248





事前の準備も無しで行ったのに、ホイアンで一日で3人もの日本人に会えるとは、ホイアンも狭い(確かに狭い地域ですが)もんですな。これもよっしー君のおかげです。ありがとうよっしー君。


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2011年6月22日水曜日

ホイアンの風景

 ホイアンと言えば、日本人には気になるこの橋、屋根のある小さな橋だが、Wikipediaによると「来遠橋(日本橋) 中国風の屋根付橋だが、1593年日本人が建設したと伝えられる。」とある。この橋から右側が昔は日本人が住んでいた地域だと聞くが、今は中国人街になっている。


この橋の所で撮影が行われていたので、ちゃっかりモデルをいただきました。このようなアオザイ姿は街の中でも見られません。
話は前後するが、橋の中はご覧のように小さい。橋の真ん中の右側にお寺がある。



でもアオザイ姿は絵になるね。

ホイアン市場ですが、今回は中を見学しませんでした。残念。

この通りは橋の右側からの通りです。

2011年6月20日月曜日

20代のホイアン娘と付き合うのは体力がもたん!



ホイアンの田舎の二日目、朝からバタバタと近くの山の滝へ行くと言う。子供の話では滝で泳ぐという。滝壺を想像する。
タクシーで行くことに決まり、タクシーは近所だった。そのタクシーが年代物の車だった。車高が極端に低い乗用車で少しの高低差でもガリガリと音がする。車全体がギシギシと音を立てながら走る。それで、山に行くというので登るのか?と心配になるが山はそんなに高くなかった。

泳ぐのは滝壺では無くて、川の水を利用して作ったプールだった。昨日はホイアンの海で泳いで、今日は滝とは。急に運動をするので身体がビックリだろう。

同行してる連中は大学生以下の子供達だ。若いから疲れを知らない。結局昼まで、休憩しながらプールで遊び、その後は滝川で遊んだりする。
こんな自然相手に遊ぶことなどベトナムどころか日本でも記憶が無い。

若い連中と付き合うことの大変さを痛感する。
一時半ごろに帰ると言い出すが、バイクも無いので歩いて行くと言う。帰りは山なので下り勾配だが、炎天下を泳ぎに疲れた身体に鞭打って歩く。

帰る途中に、大学生のカンが下りを一人で走るバイクに声をかけて後ろに乗せてもらうことを頼む。
行きは6人だったが帰りは8人だ。狭い村のこと、みんな知り合いだ。
その一人の家がカラオケと食堂をやっているらしくて、帰りに寄って行くと言い出す。時間は午後2時だ。腹減った。私はカラオケなど要らん飯だと思っていると、チキンを料理しているとホイアン娘が言う。

みんなが揃ったら、先ずカラオケが始まる。私は空き腹を我慢して付き合う。
やがて、チキンの蒸し焼き風が出て来た。これが美味かった。野菜もなにも無い、鳥肉だけだが、庭で遊んでいた鶏だろう、正に地鶏の味だ。
その後、雑炊が出て来たが、シンプルな鶏だしの雑炊、最高だった。

若者は元気だ、そのままカラオケを続行するので私は別の部屋で昼寝をする。雨も降って来た。どのくらい寝ただろうか、ふと目ざめるとカラオケはまだ続いていた。もう2時間はたっているのでは?

若者と付き合うのは大変だ。

2011年6月19日日曜日

ホイアンの田舎村




ホイアンの町から車で約一時間ぐらいの田舎へ来ている
村だと思うが、名前はまだ分からない。ホイアン娘の田舎なのだが、時間が慌ただしく過ぎて聞くことも忘れている。

昨日、ホイアンのホテルからバイクの往復で7人をバイクで30分ほど走った処で昼食を食べたのだがその店の名前も確認しないままだ。

その処からバスでやはり30分ぐらい走って降りた所がホイアン娘の父親の田舎だと言う。
その田舎の家族に迎えられて対面。

しかし、その日の目的地はここでは無い。ここからまたバイクで一時間ぐらい走った所がホイアン娘の母親の田舎だった。
そこへバイクで走るのがまた一騒動だった。最初はバスとか言っていたが、結局セオムになったのだが走り出してから途中でコンアンが居たら急に停車したり、逃げ出したりするのである。原因はバイクの3人乗りやヘルメットをしていないことなどだ。行き当たりばったりのベトナム人ならではのことだが。

夜、家族と一緒に、と言っても子供たちばかりなのだが、近くの公園に散歩する。
しばらくして、大学生のカンが村長の家にパスポートを持っていかなければならないと伝えに来た。さすが、ベトナム、私が来て二時間しか経過してないがもう情報が村長に入っているのだ。ベトナムは何処に居ても外国人の動向は常に監視されているのだ。

公園からみんなで村長の家に行くが、なんのことは無い村長の家は隣だった。
レストランだった。どこの国でも村長は地域のお金持ちだ。
村長にパスポートを見せると、警察に報告するので預かるとのこと。一時間後には返すとの事なので、そのまま家に帰る。

どうやら、今この村では外国人は私一人だろう。夜でも、ウロウロしていると村の連中がジロジロと見る。ホイアンから車で二時間離れた地域は外国人が珍しい。

7年前の恋人ホイアンは何処へ?


ホイアン&ホイアンの田舎を旅行中。

ホイアンに七年ぶりに訪れる。七年前は日本からの旅行だったが、その時のホイアンの街及び風景に魅せられてもう一度ゆっくりと来たい処だと思っていたが、今回漸くそれが実現した。

私は学生に「貴方の田舎へ行って見たい」とつぶやいて何回か学生の田舎を訪問している。教師としてのちいを利用しての行いのような気がしないでもないが、そこは楽しければイイじゃないと思い聞かせている。
そう言うわけで、今回ホイアンに来た。ただ最初からホイアン娘と同行しないで、私だけ一日早くホイアンに着いた。理由は、せっかくのホイアン旅行、評判のランタン祭りとやらを観たかったからである。

当初は15日がランタン祭りだとの情報だったが、ネットで調べたら6月は14日だった。ホイアン娘は家族と一緒の行動なので変更が効かないので私だけ先にホイアンへ行き、ランタン祭りを見ることにした。

ホーチミン市からホイアンへ行くには空の便だとダナン空港へ行き、ダナン空港からホイアンへ行く訳だが、当初私はダナン空港からホイアン行きのバスが出ているだろうと勝手に思い込んでいた。しかし、結果的には空港からは出ていなかった。

それが分ったのは出発前日の夜だった。
ホイアン行きのバスはダナン市内の停留所からは出ているので、そのバスで行くのが割安だなと思ったが、その停留所は空港からはタクシー利用しかないとかとの情報なので考えた。

空港からタクシー乗車はホーチミンでボッタクリタクシーとの値段交渉でウンザリした経験ばかりなので、急遽ホテルの迎えの車を頼んだ。空港からホイアンのホテルまで14ドルだ。高いか安いかは分からないが…。

そして、無事にダナンに着いて空港の出口に向かった。当然、ホテルの出迎えの案内があるだろうと探すがそれらしき物が見当たらない。
空港の出口ではそれぞれに出迎えの看板を持った人がいるのだが、私の名前もホテルの名前も無い。

おいおい、やっぱりか?と、連絡先の電話番号を確認して電話を掛けてふと出口を見ると、なんか私の名前らしき看板が目に入った。
その看板を持っているベトナム人を見ると、私が看板を探している時には口論をしているような様子だったのを覚えていた。オイオイ真面目にやれよとつぶやきながら、その男に声をかける。

さっきはその看板は見えなかった、君は誰かと話していただろう?と言うと、最初はとぼけていたがこちらがしつこく言うと「シンロイ、シンロイ」とベトナム人には珍しく調子良く言うので、許してやる。

30分ぐらいでホイアンのホテルに着いた。

7年前に来た時に、通称日本人橋から川べりの雰囲気が印象に残っていたが、今回訪れて見てやはり印象は違った。
一言で言えば観光地化していた。川べりには屋台が多く出ていたし、店の数も多くなっていた。狭い旧市街を観光客がひしめき合っているような雰囲気だった。世界遺産に登録された訳だし観光客が増えるのは仕方ないか?

しかし、その観光客目当ての商売はやはりベトナム名物のボッタクリだ。
サトウキビジュースを飲もうとして念のために価格を聞くと「1万ドン」と言う。なに!ホーチミンでは4千ドンだぞと言うと急に5千ドンと言う、もう要らんと立ち去る。喉が乾いていたので本当は飲みたかったがやせ我慢をした。

ホイアンの飲食物の値段はホーチミン市並みに高かった。

2011年6月17日金曜日

原発より、資源エネルギー庁が公表している産業界の保有する 自家発電6000万kW(昨年9月現在、添付ファイル)のほうが、はるかに大きな バックアップとしての発電能力を持っている。

転載記事

★広瀬隆さんより

 現在の反原発運動についてひと言申し上げます。
 みなさんにもこれを広めてください。

 電力会社の原発はほぼ5000万kWだが、今夏のピーク時には、福島第一が
廃炉になり、福島第二、東通、女川、東海第二が全滅し、浜岡が停止、柏崎
刈羽が3基再起不能で停止、さらに全土で定期検査中の原発が運転再開不能
のため、事実上1300万kWしか稼働しない状況にある。

 この頼りない原発より、資源エネルギー庁が公表している産業界の保有する
自家発電6000万kW(昨年9月現在、添付ファイル)のほうが、はるかに大きな
バックアップとしての発電能力を持っている。


 「原発の代替エネルギーとして自然エネルギーに転換せよ」という声が圧倒的
に多いが、日本人が“快適な生活”をするために使っている電気の大半を生み
出しているのは、現在は火力発電である。
 この火力発電は、日本においてきわめてすぐれた世界最高度のクリーンな新技術を
導入しているので、何ら問題を起こしていない。

決して原発が、電力の大半をになっているのではない。
原発は事故続きで、4分の1も発電していない。


 自家発電をフルに活用すれば、このすぐれた、クリーンな火力だけで、
「まったく現在のライフスタイルを変えずに、節電もせずに、工場のラインを一瞬でも
止めることなく」電気をまかなえる。
 これは、将来、自然エネルギーが不要だと言っているわけではない。
多くの人が抱いている「自然エネルギーで代替しなければ原発を止められない」という
現在の反原発運動の固定観念は、まったくの間違いである。

 将来のエネルギー構成をどうするべきかについてはここで論じないが、原発
を止めるのに、選択肢の一つである自然エネルギーは、今のところ特に必要で
はない。
 つまり、産業界を味方につけて自家発電をフルに活用し、原発を止めることのほうが、
もっと重要である。

 週刊朝日6月10日号で私が特集したように、週刊朝日の記者が各電力会社に
取材した結果、興味深い電力需給について裏の構造が明らかになった。

 全国で、電力会社が他社受電の発電能力を秘密にして、取材にも答えようと
しなかった。
 特に九州電力だけは、「発電設備ごとの能力の内訳は公開していない。
 経営戦略情報なので教えられない」と、火力・水力・他社受電(自家発電からの
買い取り)・原子力の内訳さえも答えないというトンデモナイ非常識な態度をとった。
 この九州電力が、原発を動かせないので夏に電力不足になる、と言い立てている。

 なぜ電力会社は、これら当たり前の事実を隠そうとするのか、という疑問から、
ここで重大なことが明らかになった。

 それは、「電力会社が自家発電をフルに利用すれば電力不足が起こらない」、
この事実を国民に知られると、産業界からも、一般消費者からも、「送電線を自家
発電の民間企業に解放せよ!」という世論が生まれる。
 そして制度が改善されて、誰もが送電線を自由に使えるようになると、
地域を独占してきた電力会社の収益源の牙城が崩れる。
送電線の利権だけは、何としても電気事業連合会の総力をあげて死守する必要がある、と彼らは考えている。

 九つの電力会社にとって、福島原発事故を起こした今となっては、原発の確保より、
送電線の確保のほうが、独占企業としての存立を脅かすもっと重大な生命線である。
そのため、自家発電の電気を買い取らずに、「15%の節電」を要請するという行動に
出てきたのである。

 したがって日本人は、「自然エネルギーを利用しろ」と主張する前に、「送電線を
すべての日本人に解放せよ!」という声をあげることが、即時の原発廃絶のため
に、まず第一に起こすべき国民世論である。
 何しろ、送電線が解放されて、安価に送電できなければ、自家発電ばかりでなく、
自然エネルギーの自由な活用もできないのだから。

 原発廃絶は、反原発運動の自己満足のために実現されるべきものではない。
産業界も含めた、すべての日本人のために進められるべきである。  広瀬隆
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2011年6月13日月曜日

結婚おめでとう。Chuc hanh phuc.

昨日の夜は、結婚パーテーに出席した。
新郎は4年前に私が日本語を教えた研修生で今年ホーチミン市に帰って来た。新婦はその研修生の派遣会社の社員で通訳だったが日本に駐在していた。日本語は堪能で日本語能力試験N1の資格を取っている。


新郎も日本語学習時には積極的に日本語を話すタイプだったので期待していたが、日本ではベトナム人の恋人を見つけたのでお互いにベトナム語での愛の語りになってしまい、日本語の上達にはならなかったようだ。

何はともあれ、3年間の研修生時代を終えて帰って来て結婚。これからの2人の人生が幸せであるように願います。
研修生の仲間もたくさん出席していて、楽しいパーテーでした。

いつも思うのですが、ベトナムの結婚パーテーは日本のお涙頂戴のようなかた苦しい雰囲気がなくていいですね。
参加者に思い切り楽しんでいただこうという精神でいいですね。

参加者の中に、先月日本人と結婚して明日後日に日本へ行く元研修生のベトナム人女性もいました。お幸せに…。
地域は石川県、関東以北でなくて良かったとふと思う。


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2011年6月11日土曜日

「非現実的な夢想家として」 村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文/転載記事

『我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。』『原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。』『「効率」の名のもとに「規範」「倫理」が退けられていった。』と村上春樹さんは福島原発事故を語る…。

転載記事ーーーーーーーー

村上春樹さん:カタルーニャ国際賞スピーチ原稿全文


カタルーニャ国際賞の授賞式で、スピーチする作家の村上春樹さん=スペインのバルセロナで2011年6月9日、ロイター
 9日のスペインのカタルーニャ国際賞授賞式で配布された作家村上春樹さんの受賞スピーチの原稿全文は次の通り。(原文のまま)毎日新聞http://mainichi.jp/enta/art/news/20110611k0000m040017000c.html

「非現実的な夢想家として」

 僕がこの前バルセロナを訪れたのは二年前の春のことです。サイン会を開いたとき、驚くほどたくさんの読者が集まってくれました。長い列ができて、一時間半かけてもサインしきれないくらいでした。どうしてそんなに時間がかかったかというと、たくさんの女性の読者たちが僕にキスを求めたからです。それで手間取ってしまった。

 僕はこれまで世界のいろんな都市でサイン会を開きましたが、女性読者にキスを求められたのは、世界でこのバルセロナだけです。それひとつをとっても、バルセロナがどれほど素晴らしい都市であるかがわかります。この長い歴史と高い文化を持つ美しい街に、もう一度戻ってくることができて、とても幸福に思います。

 でも残念なことではありますが、今日はキスの話ではなく、もう少し深刻な話をしなくてはなりません。

 ご存じのように、去る3月11日午後2時46分に日本の東北地方を巨大な地震が襲いました。地球の自転が僅かに速まり、一日が百万分の1.8秒短くなるほどの規模の地震でした。

 地震そのものの被害も甚大でしたが、その後襲ってきた津波はすさまじい爪痕を残しました。場所によっては津波は39メートルの高さにまで達しました。39メートルといえば、普通のビルの10階まで駆け上っても助からないことになります。海岸近くにいた人々は逃げ切れず、二万四千人近くが犠牲になり、そのうちの九千人近くが行方不明のままです。堤防を乗り越えて襲ってきた大波にさらわれ、未だに遺体も見つかっていません。おそらく多くの方々は冷たい海の底に沈んでいるのでしょう。そのことを思うと、もし自分がその立場になっていたらと想像すると、胸が締めつけられます。生き残った人々も、その多くが家族や友人を失い、家や財産を失い、コミュニティーを失い、生活の基盤を失いました。根こそぎ消え失せた集落もあります。生きる希望そのものをむしり取られた人々も数多くおられたはずです。

 日本人であるということは、どうやら多くの自然災害とともに生きていくことを意味しているようです。日本の国土の大部分は、夏から秋にかけて、台風の通り道になっています。毎年必ず大きな被害が出て、多くの人命が失われます。各地で活発な火山活動があります。そしてもちろん地震があります。日本列島はアジア大陸の東の隅に、四つの巨大なプレートの上に乗っかるような、危なっかしいかっこうで位置しています。我々は言うなれば、地震の巣の上で生活を営んでいるようなものです。

 台風がやってくる日にちや道筋はある程度わかりますが、地震については予測がつきません。ただひとつわかっているのは、これで終りではなく、別の大地震が近い将来、間違いなくやってくるということです。おそらくこの20年か30年のあいだに、東京周辺の地域を、マグニチュード8クラスの大型地震が襲うだろうと、多くの学者が予測しています。それは十年後かもしれないし、あるいは明日の午後かもしれません。もし東京のような密集した巨大都市を、直下型の地震が襲ったら、それがどれほどの被害をもたらすことになるのか、正確なところは誰にもわかりません。

 にもかかわらず、東京都内だけで千三百万人の人々が今も「普通の」日々の生活を送っています。人々は相変わらず満員電車に乗って通勤し、高層ビルで働いています。今回の地震のあと、東京の人口が減ったという話は耳にしていません。

 なぜか?あなたはそう尋ねるかもしれません。どうしてそんな恐ろしい場所で、それほど多くの人が当たり前に生活していられるのか?恐怖で頭がおかしくなってしまわないのか、と。

 日本語には無常(mujo)という言葉があります。いつまでも続く状態=常なる状態はひとつとしてない、ということです。この世に生まれたあらゆるものはやがて消滅し、すべてはとどまることなく変移し続ける。永遠の安定とか、依って頼るべき不変不滅のものなどどこにもない。これは仏教から来ている世界観ですが、この「無常」という考え方は、宗教とは少し違った脈絡で、日本人の精神性に強く焼き付けられ、民族的メンタリティーとして、古代からほとんど変わることなく引き継がれてきました。

 「すべてはただ過ぎ去っていく」という視点は、いわばあきらめの世界観です。人が自然の流れに逆らっても所詮は無駄だ、という考え方です。しかし日本人はそのようなあきらめの中に、むしろ積極的に美のあり方を見出してきました。

 自然についていえば、我々は春になれば桜を、夏には蛍を、秋になれば紅葉を愛でます。それも集団的に、習慣的に、そうするのがほとんど自明のことであるかのように、熱心にそれらを観賞します。桜の名所、蛍の名所、紅葉の名所は、その季節になれば混み合い、ホテルの予約をとることもむずかしくなります。

 どうしてか?

 桜も蛍も紅葉も、ほんの僅かな時間のうちにその美しさを失ってしまうからです。我々はそのいっときの栄光を目撃するために、遠くまで足を運びます。そしてそれらがただ美しいばかりでなく、目の前で儚く散り、小さな灯りを失い、鮮やかな色を奪われていくことを確認し、むしろほっとするのです。美しさの盛りが通り過ぎ、消え失せていくことに、かえって安心を見出すのです。

 そのような精神性に、果たして自然災害が影響を及ぼしているかどうか、僕にはわかりません。しかし我々が次々に押し寄せる自然災害を乗り越え、ある意味では「仕方ないもの」として受け入れ、被害を集団的に克服するかたちで生き続けてきたのは確かなところです。あるいはその体験は、我々の美意識にも影響を及ぼしたかもしれません。

 今回の大地震で、ほぼすべての日本人は激しいショックを受けましたし、普段から地震に馴れている我々でさえ、その被害の規模の大きさに、今なおたじろいでいます。無力感を抱き、国家の将来に不安さえ感じています。

 でも結局のところ、我々は精神を再編成し、復興に向けて立ち上がっていくでしょう。それについて、僕はあまり心配してはいません。我々はそうやって長い歴史を生き抜いてきた民族なのです。いつまでもショックにへたりこんでいるわけにはいかない。壊れた家屋は建て直せますし、崩れた道路は修復できます。

 結局のところ、我々はこの地球という惑星に勝手に間借りしているわけです。どうかここに住んで下さいと地球に頼まれたわけじゃない。少し揺れたからといって、文句を言うこともできません。ときどき揺れるということが地球の属性のひとつなのだから。好むと好まざるとにかかわらず、そのような自然と共存していくしかありません。

 ここで僕が語りたいのは、建物や道路とは違って、簡単には修復できないものごとについてです。それはたとえば倫理であり、たとえば規範です。それらはかたちを持つ物体ではありません。いったん損なわれてしまえば、簡単に元通りにはできません。機械が用意され、人手が集まり、資材さえ揃えばすぐに拵えられる、というものではないからです。

 僕が語っているのは、具体的に言えば、福島の原子力発電所のことです。

 みなさんもおそらくご存じのように、福島で地震と津波の被害にあった六基の原子炉のうち、少なくとも三基は、修復されないまま、いまだに周辺に放射能を撒き散らしています。メルトダウンがあり、まわりの土壌は汚染され、おそらくはかなりの濃度の放射能を含んだ排水が、近海に流されています。風がそれを広範囲に運びます。

 十万に及ぶ数の人々が、原子力発電所の周辺地域から立ち退きを余儀なくされました。畑や牧場や工場や商店街や港湾は、無人のまま放棄されています。そこに住んでいた人々はもう二度と、その地に戻れないかもしれません。その被害は日本ばかりではなく、まことに申し訳ないのですが、近隣諸国に及ぶことにもなりそうです。

 なぜこのような悲惨な事態がもたらされたのか、その原因はほぼ明らかです。原子力発電所を建設した人々が、これほど大きな津波の到来を想定していなかったためです。何人かの専門家は、かつて同じ規模の大津波がこの地方を襲ったことを指摘し、安全基準の見直しを求めていたのですが、電力会社はそれを真剣には取り上げなかった。なぜなら、何百年かに一度あるかないかという大津波のために、大金を投資するのは、営利企業の歓迎するところではなかったからです。

 また原子力発電所の安全対策を厳しく管理するべき政府も、原子力政策を推し進めるために、その安全基準のレベルを下げていた節が見受けられます。

 我々はそのような事情を調査し、もし過ちがあったなら、明らかにしなくてはなりません。その過ちのために、少なくとも十万を超える数の人々が、土地を捨て、生活を変えることを余儀なくされたのです。我々は腹を立てなくてはならない。当然のことです。(バルセロナ共同)
 日本人はなぜか、もともとあまり腹を立てない民族です。我慢することには長けているけれど、感情を爆発させるのはそれほど得意ではない。そういうところはあるいは、バルセロナ市民とは少し違っているかもしれません。でも今回は、さすがの日本国民も真剣に腹を立てることでしょう。

 しかしそれと同時に我々は、そのような歪んだ構造の存在をこれまで許してきた、あるいは黙認してきた我々自身をも、糾弾しなくてはならないでしょう。今回の事態は、我々の倫理や規範に深くかかわる問題であるからです。

 ご存じのように、我々日本人は歴史上唯一、核爆弾を投下された経験を持つ国民です。1945年8月、広島と長崎という二つの都市に、米軍の爆撃機によって原子爆弾が投下され、合わせて20万を超す人命が失われました。死者のほとんどが非武装の一般市民でした。しかしここでは、その是非を問うことはしません。

 僕がここで言いたいのは、爆撃直後の20万の死者だけではなく、生き残った人の多くがその後、放射能被曝の症状に苦しみながら、時間をかけて亡くなっていったということです。核爆弾がどれほど破壊的なものであり、放射能がこの世界に、人間の身に、どれほど深い傷跡を残すものかを、我々はそれらの人々の犠牲の上に学んだのです。

 戦後の日本の歩みには二つの大きな根幹がありました。ひとつは経済の復興であり、もうひとつは戦争行為の放棄です。どのようなことがあっても二度と武力を行使することはしない、経済的に豊かになること、そして平和を希求すること、その二つが日本という国家の新しい指針となりました。

 広島にある原爆死没者慰霊碑にはこのような言葉が刻まれています。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 素晴らしい言葉です。我々は被害者であると同時に、加害者でもある。そこにはそういう意味がこめられています。核という圧倒的な力の前では、我々は誰しも被害者であり、また加害者でもあるのです。その力の脅威にさらされているという点においては、我々はすべて被害者でありますし、その力を引き出したという点においては、またその力の行使を防げなかったという点においては、我々はすべて加害者でもあります。

 そして原爆投下から66年が経過した今、福島第一発電所は、三カ月にわたって放射能をまき散らし、周辺の土壌や海や空気を汚染し続けています。それをいつどのようにして止められるのか、まだ誰にもわかっていません。これは我々日本人が歴史上体験する、二度目の大きな核の被害ですが、今回は誰かに爆弾を落とされたわけではありません。我々日本人自身がそのお膳立てをし、自らの手で過ちを犯し、我々自身の国土を損ない、我々自身の生活を破壊しているのです。

 何故そんなことになったのか?戦後長いあいだ我々が抱き続けてきた核に対する拒否感は、いったいどこに消えてしまったのでしょう?我々が一貫して求めていた平和で豊かな社会は、何によって損なわれ、歪められてしまったのでしょう?

 理由は簡単です。「効率」です。

 原子炉は効率が良い発電システムであると、電力会社は主張します。つまり利益が上がるシステムであるわけです。また日本政府は、とくにオイルショック以降、原油供給の安定性に疑問を持ち、原子力発電を国策として推し進めるようになりました。電力会社は膨大な金を宣伝費としてばらまき、メディアを買収し、原子力発電はどこまでも安全だという幻想を国民に植え付けてきました。

 そして気がついたときには、日本の発電量の約30パーセントが原子力発電によってまかなわれるようになっていました。国民がよく知らないうちに、地震の多い狭い島国の日本が、世界で三番目に原発の多い国になっていたのです。

 そうなるともうあと戻りはできません。既成事実がつくられてしまったわけです。原子力発電に危惧を抱く人々に対しては「じゃああなたは電気が足りなくてもいいんですね」という脅しのような質問が向けられます。国民の間にも「原発に頼るのも、まあ仕方ないか」という気分が広がります。高温多湿の日本で、夏場にエアコンが使えなくなるのは、ほとんど拷問に等しいからです。原発に疑問を呈する人々には、「非現実的な夢想家」というレッテルが貼られていきます。

 そのようにして我々はここにいます。効率的であったはずの原子炉は、今や地獄の蓋を開けてしまったかのような、無惨な状態に陥っています。それが現実です。

 原子力発電を推進する人々の主張した「現実を見なさい」という現実とは、実は現実でもなんでもなく、ただの表面的な「便宜」に過ぎなかった。それを彼らは「現実」という言葉に置き換え、論理をすり替えていたのです。

 それは日本が長年にわたって誇ってきた「技術力」神話の崩壊であると同時に、そのような「すり替え」を許してきた、我々日本人の倫理と規範の敗北でもありました。我々は電力会社を非難し、政府を非難します。それは当然のことであり、必要なことです。しかし同時に、我々は自らをも告発しなくてはなりません。我々は被害者であると同時に、加害者でもあるのです。そのことを厳しく見つめなおさなくてはなりません。そうしないことには、またどこかで同じ失敗が繰り返されるでしょう。

 「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませんから」

 我々はもう一度その言葉を心に刻まなくてはなりません。

 ロバート・オッペンハイマー博士は第二次世界大戦中、原爆開発の中心になった人ですが、彼は原子爆弾が広島と長崎に与えた惨状を知り、大きなショックを受けました。そしてトルーマン大統領に向かってこう言ったそうです。

 「大統領、私の両手は血にまみれています」

 トルーマン大統領はきれいに折り畳まれた白いハンカチをポケットから取り出し、言いました。「これで拭きたまえ」

 しかし言うまでもなく、それだけの血をぬぐえる清潔なハンカチなど、この世界のどこを探してもありません。

 我々日本人は核に対する「ノー」を叫び続けるべきだった。それが僕の意見です。

 我々は技術力を結集し、持てる叡智を結集し、社会資本を注ぎ込み、原子力発電に代わる有効なエネルギー開発を、国家レベルで追求すべきだったのです。たとえ世界中が「原子力ほど効率の良いエネルギーはない。それを使わない日本人は馬鹿だ」とあざ笑ったとしても、我々は原爆体験によって植え付けられた、核に対するアレルギーを、妥協することなく持ち続けるべきだった。核を使わないエネルギーの開発を、日本の戦後の歩みの、中心命題に据えるべきだったのです。

 それは広島と長崎で亡くなった多くの犠牲者に対する、我々の集合的責任の取り方となったはずです。日本にはそのような骨太の倫理と規範が、そして社会的メッセージが必要だった。それは我々日本人が世界に真に貢献できる、大きな機会となったはずです。しかし急速な経済発展の途上で、「効率」という安易な基準に流され、その大事な道筋を我々は見失ってしまったのです。

 前にも述べましたように、いかに悲惨で深刻なものであれ、我々は自然災害の被害を乗り越えていくことができます。またそれを克服することによって、人の精神がより強く、深いものになる場合もあります。我々はなんとかそれをなし遂げるでしょう。

 壊れた道路や建物を再建するのは、それを専門とする人々の仕事になります。しかし損なわれた倫理や規範の再生を試みるとき、それは我々全員の仕事になります。我々は死者を悼み、災害に苦しむ人々を思いやり、彼らが受けた痛みや、負った傷を無駄にするまいという自然な気持ちから、その作業に取りかかります。それは素朴で黙々とした、忍耐を必要とする手仕事になるはずです。晴れた春の朝、ひとつの村の人々が揃って畑に出て、土地を耕し、種を蒔くように、みんなで力を合わせてその作業を進めなくてはなりません。一人ひとりがそれぞれにできるかたちで、しかし心をひとつにして。

 その大がかりな集合作業には、言葉を専門とする我々=職業的作家たちが進んで関われる部分があるはずです。我々は新しい倫理や規範と、新しい言葉とを連結させなくてはなりません。そして生き生きとした新しい物語を、そこに芽生えさせ、立ち上げてなくてはなりません。それは我々が共有できる物語であるはずです。それは畑の種蒔き歌のように、人々を励ます律動を持つ物語であるはずです。我々はかつて、まさにそのようにして、戦争によって焦土と化した日本を再建してきました。その原点に、我々は再び立ち戻らなくてはならないでしょう。

 最初にも述べましたように、我々は「無常(mujo)」という移ろいゆく儚い世界に生きています。生まれた生命はただ移ろい、やがて例外なく滅びていきます。大きな自然の力の前では、人は無力です。そのような儚さの認識は、日本文化の基本的イデアのひとつになっています。しかしそれと同時に、滅びたものに対する敬意と、そのような危機に満ちた脆い世界にありながら、それでもなお生き生きと生き続けることへの静かな決意、そういった前向きの精神性も我々には具わっているはずです。

 僕の作品がカタルーニャの人々に評価され、このような立派な賞をいただけたことを、誇りに思います。我々は住んでいる場所も遠く離れていますし、話す言葉も違います。依って立つ文化も異なっています。しかしなおかつそれと同時に、我々は同じような問題を背負い、同じような悲しみと喜びを抱えた、世界市民同士でもあります。だからこそ、日本人の作家が書いた物語が何冊もカタルーニャ語に翻訳され、人々の手に取られることにもなるのです。僕はそのように、同じひとつの物語を皆さんと分かち合えることを嬉しく思います。夢を見ることは小説家の仕事です。しかし我々にとってより大事な仕事は、人々とその夢を分かち合うことです。その分かち合いの感覚なしに、小説家であることはできません。

 カタルーニャの人々がこれまでの歴史の中で、多くの苦難を乗り越え、ある時期には苛酷な目に遭いながらも、力強く生き続け、豊かな文化を護ってきたことを僕は知っています。我々のあいだには、分かち合えることがきっと数多くあるはずです。

 日本で、このカタルーニャで、あなた方や私たちが等しく「非現実的な夢想家」になることができたら、そのような国境や文化を超えて開かれた「精神のコミュニティー」を形作ることができたら、どんなに素敵だろうと思います。それこそがこの近年、様々な深刻な災害や、悲惨きわまりないテロルを通過してきた我々の、再生への出発点になるのではないかと、僕は考えます。我々は夢を見ることを恐れてはなりません。そして我々の足取りを、「効率」や「便宜」という名前を持つ災厄の犬たちに追いつかせてはなりません。我々は力強い足取りで前に進んでいく「非現実的な夢想家」でなくてはならないのです。人はいつか死んで、消えていきます。しかしhumanityは残ります。それはいつまでも受け継がれていくものです。我々はまず、その力を信じるものでなくてはなりません。

 最後になりますが、今回の賞金は、地震の被害と、原子力発電所事故の被害にあった人々に、義援金として寄付させていただきたいと思います。そのような機会を与えてくださったカタルーニャの人々と、ジャナラリター・デ・カタルーニャのみなさんに深く感謝します。そして先日のロルカの地震の犠牲になられたみなさんにも、深い哀悼の意を表したいと思います。(バルセロナ共同)



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2011年6月9日木曜日

原発事故報告 国民は後回しなのか:全く同感。/転載記事

【社説】東京新聞
原発事故報告 国民は後回しなのか
2011年6月9日
 福島第一原発事故について政府が国際原子力機関(IAEA)に出した報告書には、国民の知らない重大問題が記されていた。主権者への報告と説明をないがしろにするような姿勢は許されない。
 政府の原子力災害対策本部が公表した報告書の中身は、二十日にウィーンで始まるIAEAの閣僚級会合で議論される段取りだ。
 そこにはメルトスルー(溶融貫通)という聞き慣れない言葉が登場した。溶け落ちた燃料が原子炉圧力容器の底から流れ出て、格納容器にたまる現象を意味する。メルトダウン(炉心溶融)よりも深刻な事態だ。
 1~3号機の炉心でそれが起きた可能性がある。政府がそう初めて公式に認めたわけだ。報告書の提出に当たり、菅直人首相は「国際社会に徹底した透明性を持って伝えることが、日本の信頼を取り戻す上で重要だ」と述べた。
 だがそんな重大問題を、国際社会への報告の運びに合わせて国民に公表するとは本末転倒だ。真っ先に情報を開示して説明を尽くすべき相手は国民ではないのか。
 報告書には今までの事故の経緯と対応が詳述され、二十八項目の教訓が挙げられた。政府が自己批判を加えつつ洗い出した大小さまざまな問題点とその評価、そして安全向上策がうたわれた。
 例えば、電力会社任せだったシビアアクシデント(過酷事故)の防止策を法制化する。原発を規制する経済産業省原子力安全・保安院を、推進する経産省から独立させる。原子力の安全や防災にかかわる法体系を見直すという。
 疑問なのは重要な教訓を導き出すのに、どこでどんな論議が交わされたのか見えないことだ。暫定的とはいえ、不透明な手続きを経て出てきた報告書が日本の国際公約として独り歩きしてしまう。
 独立機関の事故調査・検証委員会は緒に就いたばかりだ。報告書そのものも検証の対象となる。検証委が手掛ける報告内容がすべてに優先する。政府は国際社会にそう宣言しておくべきだ。
 委員長の畑村洋太郎東京大名誉教授は「原子力は危険なものだと思っている。それが安全なものとして取り扱われてきたことが間違っていた」と初会合で述べた。検証委の基本姿勢を示す発言として特筆したい。
 今度の報告書は従来の原発政策を容認し、強化するようにも映る。原発の安全神話を疑ってかかる検証委には国民的議論に向けて公正な材料を提供してほしい。



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二本松市長は国、県に内部被ばく調査を要請したが動かず、独自に  行うことを決断。県外の医療機関で近く20人がホールボディカウンター

二本松市長、市民の内部被曝調査決断

◆(中日新聞2011.6.8特報
「福島・二本松 住民内部被曝独自調査へ 国見きり“自衛”決断 」

1. 二本松市長は国、県に内部被ばく調査を要請したが動かず、独自に
 行うことを決断。県外の医療機関で近く20人がホールボディカウンター
 検査を行う予定。
二本松市の判断をきっかけに、福島県立医科大学で今月末からホール
 ボディカウンターの検査を行う予定。1日約10人可能。

2.矢ヶ崎氏(琉球大学名誉教授)は「事故から3ヶ月経。住民の被ばくを
 回避する措置が取られていない。それどころか、原発の状況に合わせて、
 住民の年間の許容基準を引き上げた。『被ばくさせておけ』という考え方だ」
 と批判。

3.特報は、SPEEDIの予測を隠し、文科省のストロンチウム90の発表が1ヶ月
 後と遅すぎる。古川路明氏(名古屋大学名誉教授)は良心的な分析をしても
 10日くらいと。

4.長崎大学病院での内部被曝調査 
長崎大学病院は3月中に福島県に派遣された職員、被災地からの避難者87人
 への分析で、約4割が内部被曝していた。

5.厚生労働省災害対策本部事務局は内部被ばく調査をしない理由を「治療対
 策にすぐ結びつくものではない。必要ないと判断した」と強弁するが、実施調査さ
 えせず「安全」を信じろというのは悲喜劇だ。その無責任な姿勢が自治体や住民
 を“自衛”に追い込んでいる、と結んでいます。


◆以下、東京新聞特報 のリード部分
 「内部被ばくを独自調査 二本松市長の英断 
                  2011年6月4日
 現在の政局を論じるのは時間のむだだ。住民が安全な場所で食べ、眠れるという最小限の条件すら保障されずに復興も何もないだろう。福島県二本松市では先月、県に先駆け、独自に住民の内部被ばく調査をすることを決めた。決断には被ばく情報を隠してきた国や県への「見切り」が横たわる。自分らの命は自分らで守る。強いられたとはいえ、被災地には自立への機運が強まっている。 (佐藤圭、中山洋子)」
http://www.tokyo-np.co.jp/article/tokuho/list/CK2011060402000047.html

◆二本松市長のインタビュー動画サイト 2011.5.27
    http://www.youtube.com/watch?v=s9e8rslKFhc

    文字化したサイトも多数あります。
 
◆ 3月12日からの広河隆一さんたちのビジュアルジャーリストの福島放射
 能測定が国に放射線量測定値を公開させたように、 福島の父母ちたが
立ち上がったように。




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